SFアクション漫画「コブラ」で有名な漫画家、寺沢武一(てらさわ ぶいち)さんが8月8日、心筋梗塞でお亡くなりになりました。
享年68歳。
まだ68歳という早すぎる死に、惜しむ声や悲しみの声が多数上がっています。
寺沢武一さんは1955年生まれで北海道旭川市出身、
漫画家デビューは1977年、22歳の時でした。
寺沢さんの作風にはアメコミの影響が強く見られ、描写も欧米作品風です。
代表作「コブラ」も、日本人離れしたセンスで描かれています。
この「コブラ」はデビュー作でもあるんですよね。
最初からこのような個性的なセンスだったんですね。
しかし寺沢さんはデビュー前、「漫画の神様」と言われる手塚治虫氏のアシスタントをされていたようです。
ちょっと意外ですね。
手塚治虫氏がちょうど「ブラック・ジャック」などを執筆されていた頃のようです。
寺沢さんと手塚治虫氏はどのような師弟関係だったのでしょうか?
寺沢武一は手塚治虫のアシスタントだった
寺沢武一さんは1974年、北海道旭川東高等学校を卒業。
本来は医学部志望だったようですが大学受験に失敗。
浪人中に漫画家を志すようになったということです。
1976年、手塚プロダクションのアシスタントに応募したが一度落とされる。
⚠ 落とされたのは絵柄が手塚治虫と違いすぎるという理由だったようです。
しかし手塚治虫氏自身が寺沢さんの絵を気に入り、
こんな凄い絵を描ける奴をなんで落とすんだ!
という鶴の一声で採用に至ったとの事です。
アシスタント志望で投稿したマンガなのに、あの手塚治虫氏をして「凄い絵」と言わせるなんて、寺沢武一さんの才能の凄さが伝わってきますね。
二人はどんな師弟関係だったのか
1976年に上京し、手塚プロダクションの漫画家スタッフとして勤務していた寺沢武一さんですが、翌年の1977年には週間少年ジャンプ増刊号にて一話読み切りの「コブラ」でデビュー。
1978年には週間少年ジャンプ本誌において「コブラ」の連載が開始されて、連載は1985年まで続きました。
凄いスピード出世ですね。
なので寺沢武一さんが手塚治虫氏のもとでアシスタントとして働いていたのは、1年か1年半くらいの、わずかな期間です。
手塚治虫氏はもともと
アシスタントは2-3年程度で独り立ちすることを良しと考えていた
ようです。
寺沢武一さんの場合はかなり早い時点で独り立ちされたようで
しかもデビュー作品の連載が7年も続いているので、
漫画に関しては天才と言ってもいいレベルだと思います。
ただそのせいで寺沢武一さんと手塚治虫氏の間柄に関するエピソードの情報がほとんどありません。
唯一見つけられたのは寺沢武一さんの「コブラ」がジャンプコミック版になった時、第1巻の後書きに手塚治虫氏の文章が掲載されていて、その内容は
彼の絵は緻密で丹念である
ということでした。
やはり手塚治虫氏は寺沢武一さんの画力を高く評価していたのですね。
また、寺沢武一さんはインタビューの中で
新しい技法に積極的に挑戦するのは、新し物好きだから。
それに尽きる。
もしかしたら手塚治虫先生の影響かもしれない。
手塚先生も新し物好きだったから。
まだご存命だったら、3DCGを使った表現とか、僕よりも積極的にチャレンジしていたんじゃないかな。
とおっしゃっていました。
まとめ
寺沢武一さんが手塚治虫氏のアシスタントをしていたのは1年かそこらの、非常に短い期間でした。
漫画家志望の方はプロの漫画家のアシスタントをして、プロの技術や仕事の仕方を学びつつ、プロとして独立することを目標とするのでしょうが、寺沢武一さんのデビューは驚きの早さでした。
なのでお二人のエピソードはほとんど見つけることが出来ませんでした。
しかしわずかなやり取りから、良い師弟関係だったことが伺えます。
巨匠・手塚治虫氏が亡くなったのは今から34年前の1989年。
手塚治虫氏は60歳でお亡くなりになり、その早すぎる死は日本中に大きな衝撃を与えましたが、
手塚治虫氏に続き寺沢武一さんも亡くなってしまいました。
しかしお二人が残した偉大な作品は残り、後世の人々にまで感動と影響を与え続けるに違いありません。