細野晴臣さんといえば坂本龍一さん、高橋幸宏さんとともにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のメンバーの一人として有名ですね。

細野晴臣 屋外

YMOはわずか6年ほどで解散しましたが、解散から40年経った今でもテクノ音楽の元祖と称され世界的にも有名なグループなので、活動していた当時の人気がどれほど凄まじかったのか想像するのも難しいほどです。

YMO
イエロー・マジック・オーケストラ 3人

そのYMOの立役者が細野晴臣さんなのですが、彼はYMO結成前も解散後も含めて、日本の音楽シーンに大きく貢献していた天才音楽家でした。

 

YMOのネームバリューが大き過ぎたのと、メンバーの坂本龍一さん、高橋幸宏さんそれぞれも稀有な才能の持ち主だったということで、細野晴臣さんが特別抜きん出て話題になる事はあまりないような気がしますが、過去を紐解いてみると細野晴臣さんの凄さがよくわかります。

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細野晴臣の若い頃の天才ぶり

細野晴臣さんは立教大学在学中に、すでに「天才ベーシスト」として知る人ぞ知る有名人でありその評判は他校にまで及んでいたそうです。

1969年、細野さん22歳の時、「バレンタイン・ブルー」という名前のロックバンドを結成。(後に「はっぴいえんど」と改名。)

はっぴいえんど

メンバーは細野晴臣、松本隆、大滝詠一、鈴木茂。

(右端が細野さん)

 

演奏能力がずば抜けているスペシャル集団と言われていた「はっぴいえんど」でしたが3年で解散。

しかしそこから4人は別々に活動しながら全員がそれぞれの道で大きな成功を収めています。

ユーミンをプロデュース

細野晴臣さんは「はっぴいえんど」を経て1973年、「キャラメル・ママ」(のちにティン・パン・アレーと改名)というバンドを結成。

ティン・パン・アレー

メンバーは細野晴臣、鈴木茂、 松任谷正隆、林立夫。

(右上が細野さん)

「キャラメル・ママ」は、バンドというより“サウンド・プロデュース・チーム”として活動しており、デビュー当時の荒井由実(松任谷由実)のプロデューサー&アレンジャーを担っていました。

荒井由実

1973年11月20日、キャラメル・ママのサポートで荒井由実のファーストアルバム「ひこうき雲」がリリースされ、この作品がフォークでもロックでも歌謡曲でもない「ニューミュージックという新たなジャンルを生み出します。

 

ユーミンが世に出たのは、もちろん本人の類まれなる才能があってこそなのですが、無名の頃の彼女をバックアップし、新しく魅力的なサウンドでユーミン独自の世界を共に作り上げたという意味で、キャラメル・ママの功績は偉大なものだったと思います。

井上陽水の伝説のアルバム「氷の世界」にも参加

1973年12月1日にリリースされ、日本史上初のミリオンセラーアルバムとなった井上陽水の「氷の世界」。

井上陽水 氷の世界

昭和の時代に爆発的ヒットとなったこの伝説のアルバムに細野晴臣さんはベースギターとして参加されています。

「氷の世界」は『帰れない二人』『心もよう』など名曲ぞろいで、50年前のアルバムとはとても思えません。

古臭さを感じさせないのは井上陽水の歌の力もさることながら、サウンドの素晴らしさと一流メンバーの完璧な演奏力によるところも大きいでしょう。

YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)結成

1970年代後半、世界の音楽シーンにはシンセサイザーやコンピューターを採り入れた演奏が登場。

その新しさに興味を持った細野晴臣さんは1978年2月、音楽仲間の高橋幸宏と坂本龍一を引き込んで、国籍不明のアジアのバンドを目指し海外から活動を始めます。

それがイエロー・マジック・オーケストラ、YMOだったのです。

イエロー・マジック・オーケストラ

従来の楽器とシンセサイザーで演奏するのが本当に面白かった。」と、純粋に音楽を楽しんでいた細野さんですが、コンピューター一辺倒の時代の流れと合致してYMOの登場は社会現象にまで広がる大ブレイクを巻き起こし、YMOは瞬く間に時代の寵児(ちょうじ)となりました。

 


ちなみにこちらの動画は1981年、新宿コマ劇場でのYMOのライブです。

細野晴臣さんの化粧映えが半端なく、最先端のテクノミュージックに最先端のビジュアルメイクって感じで今見ても魅惑的で引き込まれてしまいますね!

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YMOは一つの通過点!?

時代の寵児となってしまったYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)ですが、それは同時に「自分の意思が全く通用しないという世界に入ってしまうということ」(:細野晴臣さん談)だそうで、細野晴臣さん始め坂本龍一さん、高橋幸宏さんにとっても当然それは望むところではなかったでしょう。

 

当時のYMOは傍から見たら時代の最先端を走る憧れの存在だったし、本人たちも走り始めた当初は純粋に新しい音楽を楽しんでいたのだと思いますが、大ブレイクしてからのYMOはもはや3人がコントロールできるバンドではなくなっていたようです。

YMOの散開(解散)

結成から5年8ヶ月後の1983年10月、YMOは散開します。

「散開(さんかい)」とは忍者用語で、要するに『ゲリラ的な活動をする』という意味であり、『散って、そこで花開く』というイメージのようです。

「解散」と言うとファンの人が悲しむからと、細野さんはあえて「散開」という言葉を使ったということです。

 

ただ後の細野さんによるとそもそもYMOは結成時から常に “散開” 状態だったそうで、異才が集まって個性をぶつけ合い、今やりたい音楽を、自分たちがやりたいようにやるというスタイル。

細野晴臣 坂本龍一 高橋幸宏

そんな3人の異才のキャラが立っていたからこそYMOは世界的に売れたのでしょうが、あまりにも売れ過ぎるとその影響力の大きさから本人たちは不自由で窮屈な思いをすることになるようです。

さっさとYMOを去り次に行きたいというのが3人の本音だったのかもしれません。

松田聖子や中森明菜に楽曲提供

散開後、いえ正確には散開前から、3人はそれぞれ独自の活動をしていました。

細野晴臣さんは楽器の演奏だけではなく、沢山のアーティストに曲を提供しています。

以下はその一部です。

1979年 『ユー・メイ・ドリーム 』

(シーナ&ザ・ロケッツ)

作詞:柴山俊之、Chris Mosdell

作曲:鮎川誠、細野晴臣

 

1981年 『ハイスクールララバイ』

(イモ欽トリオ)

作詞:松本隆 作曲:細野晴臣

 

1982年 『赤道小町ドキッ』(山下久美子)

作詞:松本隆 作曲:細野晴臣

 

1983年 『夢・恋・人。』(藤村美樹)

作詞:松本隆 作曲:細野晴臣

 

1983年 『天国のキッス』(松田聖子)

作詞:松本隆 作曲:細野晴臣

 

1983年 『ガラスの林檎』(松田聖子)

作詞:松本隆 作曲:細野晴臣

 

1983年 『禁区』(中森明菜)

作詞:売野雅勇 作曲:細野晴臣

 

1984年 『風の谷のナウシカ』(安田成美)

作詞:松本隆 作曲:細野晴臣

 

1984年 『ピンクのモーツァルト』(松田聖子)

作詞:松本隆 作曲:細野晴臣

 

1984年 『硝子のプリズム』(松田聖子)

作詞:松本隆 作曲:細野晴臣

 

バンド仲間だった松本隆さんと組んだ仕事が多く、どれも大ヒット曲ですね。

 

松田聖子の「天国のキッス」に関してはベースもキーボードもシンセも、すべて細野さんの演奏だそうです。

アレンジも、全部自分でやっちゃったんで、思い切り、思い切り、好きなことできたから、すごく満足してるの」と後に細野さんご本人が語られています。

 

しかし当時ライバル関係にあった人気最盛期の松田聖子と中森明菜に同時に曲を提供していたとは驚きです。

細野晴臣さんががいかに才能に溢れたヒットメーカーだったかということがよくわかりますね。

まとめ

改めて細野晴臣という人物に注目してみると、YMOのリーダーだったというだけではなく、日本のポピュラー音楽シーンを牽引し、世の中に多大なる影響を与え続けていたアーティストだったということがよくわかりました。

ごく若い時から自然体で無理せず、自分を前面に押し出すこともせず、常に飄々としている感じがいかにも天才という感じです。

そんな細野晴臣さんにとっては、社会現象となったYMOの大ブレイクも一つの通過点に過ぎなかったようです。

YMOから解放されて、僕は他のアーティストへの楽曲提供やプロデュース、CMなどを多く手掛けます。抑えていた曲のアイデアがあふれ、それを表現して喜んでもらえることがうれしかったですね。

引用:細野晴臣が語る仕事

2017/12/04

仕事力|「働く」を考えるコラム

朝日新聞ひろば

才能に満ち溢れた人にしか言えない言葉をサラッと嫌味なく言える細野さん、カッコいいです。

細野晴臣さんにはこれからもずっと世の中に影響を与え続ける存在でいて頂きたいです。

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