ダウン症の書家・金澤翔子さん(39歳)。
shoko.kanazawa インスタグラム
その才能と、母親とともに歩んできた感動的な人生は多くの人に知られています。
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彼女の生い立ちや母親の泰子さんは有名ですが、若くして亡くなったという父親はどんな人だったのでしょうか?
この記事では金澤翔子さんの父親、金澤裕(かなざわ ひろし)さんにフォーカスを当てて、
会社経営者で熱心なクリスチャンだった裕さんの人生、そして彼の突然の死までをまとめてみました。
目次
金澤翔子の父親は会社経営者でクリスチャンだった
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上の画像は金澤翔子さんと父親の裕さんです。
ロウソクが1本立っているので、翔子さん1歳の誕生日のお祝いですね。
裕さんはロウソクの火を吹き消そうとして、翔子さんの両手をしっかり握っています。
ロウソクの火を翔子さんが触ったりしないように気遣っているんですね。
何気ない写真ですが父親の温かい愛情が伝わってくるようです。
NHK SCIENCE&CULTURE
(手をつないで歩く翔子さんと、父親の裕さん)
この画像、個人的にいわさきちひろさんの水彩画のようだなと感じました。
優しい愛情に包まれた、あどけない翔子さんの姿が可愛いです。
金澤翔子の父親のプロフィール
金澤翔子さんの父親・裕さんのプロフィールはこちらです。
名前:金澤裕(かなざわ ひろし)
生年:1948年
職業: 実業家、家業を継ぎ複数の会社を経営
家族:妻 金澤泰子(書家)
娘 金澤翔子(書家、1985年生まれ)
信仰:熱心なクリスチャン
趣味・関心:能に深い造詣を持ち、妻との出会いも能を通じて
経歴: 泰子さんと結婚後、2度の流産を経て翔子さんが誕生
翔子さんがダウン症と診断された際、家族を支える
「翔子が20歳になったら個展を開こう」と提案していた
金澤裕さんは1948年生まれ。
妻の金澤泰子さんは1943年生まれなので5つ年下の夫でした。
泰子さんとの馴れ初めは?
NHK SCIENCE&CULTURE
裕さんは能に深い関心を持ち、文化的な素養も豊かな人だったようです。
泰子さんとは能を通じて知り合ったそうで、泰子さんの妹が能の演者だったことが縁のきっかけだとか。
会社経営者でクリスチャン
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結婚後、泰子さんが2度の流産を経験した後、1985年に待望の娘・翔子さんが誕生。
その時裕さんは38歳でした。
実業家として家業を継ぎ、いくつかの会社を経営する多忙な人物だったようです。
おおらかな人柄で、翔子さんがダウン症と診断された時も特に落ち込んだ様子は見せず、精いっぱいの愛情を注いでいたと泰子さんは語っていました。
待望の我が子がダウン症だったら普通はショックで落ち込むと思いますが、裕さんは熱心なクリスチャンだったので、その信仰心から動じなかったのかもしれません。
家族のためにいつも祈っていた
誕生直後、翔子さんは敗血症を起こしました。
裕さんは、娘の命を救うために迷わず輸血を選択したそうです。
父親の深い愛情以外のなにものでもありませんね。
泰子さんによると、「裕はいつも家族のために祈っていた」とのこと。
そんな彼は、翔子さんが書道に目覚めた時もその才能を信じ、「20歳になったら個展を開こう」と言っていたそうです。
突然の死は心筋梗塞
愛情深く、家族の柱となっていた裕さんですが、1999年のある日突然倒れ、帰らぬ人となってしまいます。
享年52歳。翔子さんが14歳の時でした。
死因は心筋梗塞だったそうです。
会社経営のストレスや過労が原因だったのでは、と言われていますが、家族を守るために懸命に働いていたことが、体に負担をかけたのかもしれません。
泰子さんの悲しみはどれほどだったことでしょうか。
約束の個展を開く
裕さんの死後、翔子さんは父親の写真に手を合わせ、「お父さま」と話しかけることが日課になったそうです。
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泰子さんに叱られた時は「お父さま、お母さまを叱ってよ」と話しかけていたとか。
2005年、翔子さんは20歳で初の個展「翔子 書の世界」を銀座で開催しました。
父親・裕さんとの約束を果たした瞬間は、ファンにとっても感動的なエピソードとして語り継がれています。
父親が遺したもの
心筋梗塞による突然の死は悲劇でしたが、裕さんが遺した「個展を開く」という約束は、泰子さんと翔子さんの人生に大きな光を与えました。
金澤翔子さんの父親の金澤裕さんは、52年という短い生涯の中で娘と妻への深い愛情を示し、翔子さんの書家としての道を間接的に支えた存在と言えるでしょう。
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今日は翔子の父親の命日。
鎌倉の円覚寺に眠っている、お父さまに会いにいって来ました。
翔子と私には一番悲しい1月16日なのに、
今日は風もなく空は蒼く晴れ渡り素晴らしい穏やかな幸せな日でした。
あれから22年を経て「お父さま、見守りいつもお側にいて、助けてくださって、翔子も私も幸せになっています。
ありがとうございます」と長い時間お話してきました。
いつもお墓参りの後に寄る喫茶店でふたり、またお父さまのお話しをたくさんしました。
2022年1月16日