
2026年9月9日、元プロ野球選手で野球解説者の張本勲(はりもと・いさお)さんが東京都内の病院で亡くなりました。
享年86歳。
死因は現時点(9月10日午前)では公表されていません。
張本勲さんといえば、通算3085安打を記録した「安打製造機」。
現役引退後は『サンデーモーニング』のご意見番として、「喝!」のイメージが強い人も多いでしょう。
ただ、その豪快な姿からは想像しにくいほど、若い頃は壮絶でした。
4歳で右手に大やけどを負い、5歳で広島の原爆に被爆。さらに姉を原爆で亡くし、貧しさや差別の中で少年時代を過ごしています。
野球を始めたのも、単にスポーツが好きだったからではありません。
張本さんにとって野球は、苦しい生活から抜け出すための道でもありました。
あの3085本の安打は、天才打者が順風満帆に積み重ねた数字ではなかったんです。
では、張本さんはどんな少年時代を経て「安打製造機」になったのか。ここから、その歩みを追っていきましょう。
張本勲は4歳の大やけどで右手にハンデ
まず、張本さんの野球人生を語るうえで外せないのが、4歳の冬に負った右手の大やけど。
芋を焼いていた「とんど」に落ち、大きなけがを負いました。
その影響で、右手は親指と中指以外がほとんど自由に使えない状態になったとされています。
野球選手、それも後に日本を代表する打者になる人の話として考えると、かなり大きなハンデですよね。
張本さんはもともと右利きでしたが、小学校で野球を始めた頃には、すでに右投げ左打ちでした。
その後、右手では変化球を握りにくかったことから、投げるほうを左投げへ転向します。
つまり、大やけどがきっかけで左打ちになったわけではありません。
そして高校時代、投手として投げすぎたことで肩を痛め、そこから打者に専念していきました。
右手のハンデは投げ方に影響し、肩の故障が打者一本へ進む転機になった。
この流れを知ると、「安打製造機」になるまでの道は最初から決まっていたわけではなかったことが分かりますね。
さらに驚くのは、張本さんが現役時代、この右手についてほとんど語らなかったことです。
後に川上哲治さんが張本さんの手を見て、その状態に驚き、涙を流したというエピソードも伝えられています。
3085本の安打を打った選手が、実は幼い頃から右手に大きなハンデを抱えていた。
張本さんの「強さ」は、記録だけを見ていても分からない部分にあったのかもしれません。
5歳で広島原爆に被爆、姉との悲しい別れ
右手の大やけどだけでも十分に過酷ですが、その翌年に起きたのが、さらに大きな出来事でした。
1945年8月6日。
当時5歳だった張本さんは、広島で原爆に遭いました。
爆心地から約2キロの自宅にいたときに強烈な閃光を目にし、気を失ったといいます。
そして意識を取り戻したとき、目に入ったのが母親の姿でした。
母親の服には血が流れていたと、張本さんは後年語っています。
さらに張本さんの人生に深い傷を残したのが、6歳上の姉との別れ。
学徒動員に出ていた姉は原爆によって大やけどを負い、数日後に亡くなります。
張本さんは、弱った姉のためにブドウを搾り、その汁を口に含ませたことを後年まで語っていました。
まだ5歳です。
右手に大きなハンデを抱えた翌年に原爆を経験し、姉まで失ったことになります。
生き残ったあとも、「自分も原爆症になるのではないか」という不安を長く抱えていたとされています。
テレビで見せた張本さんは、とにかく強気でした。
時には「そこまで言う?」と思うほど厳しい。
ただ、その強さだけを見ていると、張本さんという人物の半分しか見えていなかったのかもしれません。
幼い頃から「明日が当たり前に来るとは限らない」という現実を、嫌でも知ってしまった人だったのです。
「段原のハリ」が野球に人生を懸けた理由
少年時代の張本さんは、最初から野球一筋の優等生だったわけではありません。
中学時代には「段原のハリ」と呼ばれ、喧嘩に明け暮れていたといいます。
本人も後年、広島にそのままいたらヤクザになっていたかもしれないという趣旨の振り返りをしています。
貧しさや差別の中で育ち、喧嘩で自分を守る。
そんな少年の人生を別の方向へ向けたのが、野球だったんです。
きっかけの一つとして語られているのが、巨人の選手たちを目にした経験です。
宿舎で肉や生卵を食べるプロ野球選手たち。
当時の張本さんにとって、その生活はまるで別世界に見えたのでしょう。
そこで「トタン屋根の長屋から抜け出すには野球しかない」と考えるようになります。
ここが、今の感覚でいう「野球が好きだからプロを目指しました」とは少し違うところですよね。
張本さんにとって野球は夢であると同時に、今いる場所から抜け出すための現実的な手段でもありました。
古タイヤを吊るし、ひたすらバットを振る。
右手が不自由なら、できる方法を探す。
環境が厳しいなら、そこから出るために打つ。
「根性」という一言で片づけるには、少し重すぎる話ですよね。
打たなければ次がない。
そんな切実さが、張本さんの野球の原点にはあったように思います。
浪商時代を支えた兄とプロへの道
野球で人生を変えようとしても、その道は簡単には開きませんでした。
張本さんは甲子園を目指しましたが、広島の強豪校への進学は思うようにいかず、最終的に大阪の浪華商業、いわゆる浪商へ進みます。
ここで忘れられないのが、家族の存在。
特に張本さんを支えたのが兄でした。
兄は自分の給料の半分ほどを仕送りし、張本さんの野球生活を支えたと伝えられています。
自分の生活だって楽ではない時代です。
それでも弟に託した。
張本さん一人の「成り上がってやる」という物語だけではなく、家族の生活まで背負った挑戦だったことが分かります。
浪商では投手としても活躍していましたが、投げすぎによって肩を痛めます。
投手としては大きな痛手です。
しかし、ここで野球人生そのものが終わったわけではありません。
打者に専念し、その打撃を武器にプロへの道を切り開いていきます。
そして1959年、東映フライヤーズに入団。
ここから「安打製造機」の歴史が始まりました。
右手にハンデがある。
被爆も経験した。
高校では肩を壊した。
裕福な環境でもない。
野球エリートとして一直線に歩いてきたわけでもありません。
それでもプロの世界までたどり着いた。
若い頃を知るほど、後の3085安打という数字の見え方が変わってくるんですよね。
逆境から「安打製造機」になった張本勲
そしてプロ入り後、張本さんは日本プロ野球史に残る打者へ成長しました。
- 通算3085安打。
- 通算504本塁打。
- 通算319盗塁。
- 首位打者7回。
- シーズン打率3割を16回記録。
圧倒的な数字です。
なかでも3085安打は、張本さんを象徴する記録。
1980年5月28日には、ロッテ時代に通算3000安打へ到達しました。
しかも節目の一本は、山口高志さんから放った本塁打。
「安打製造機」の3000本目がホームラン。
出来すぎた話のようですが、張本さんらしい豪快な場面です。
ただ、若い頃を振り返ってからこの数字を見ると、単なる大記録とは少し違って見えてきます。
4歳で右手に大やけどを負う。
5歳で被爆し、姉を失う。
貧しさの中で野球に活路を求め、右手で思うように投げられなければ左で投げる。
そして高校で肩を壊せば、今度は打者として勝負する。
もちろん、壮絶な経験をしたから大打者になれた、と単純に結びつけることはできません。
苦労は美談にすればいいものでもないでしょう。
それでも張本さんの歩みを追うと、自分では選べなかった逆境にぶつかるたび、「それなら次はどうする」と生きる道を変えてきたことが見えてきます。
右手が不自由なら、別の投げ方を探す。
肩を壊したなら、打者として生きる。
今いる場所から抜け出したければ、バットを振る。
そして最後には、日本で誰よりも多くの安打を積み重ねました。
張本勲という人を「喝!」の頑固なご意見番としてしか知らなかった人ほど、若い頃を知ると印象が変わるのではないでしょうか。
あの厳しさの奥には、簡単には語りきれない少年時代がありました。
3085本という数字のすごさは消えません。
でも、その数字にたどり着くまでの人生を知ると、「安打製造機」という呼び名さえ、少し人間くさく聞こえてきます。
